2011年01月13日
ドラマ『白夜行』2
ドラマ『白夜行』でもうひとつ忘れがたいシーンがあります。
主人公雪穂が大学生になり社交ダンス部に入いりました。
その練習場の壁に書かれてあった文字に雪穂は目を奪われたのです。
「いざという時にダンスのひとつでもできるやつが生き残っていく」
これは確か『風と共に去りぬ』のレッド・バトラーのことばですが、これは私もガツンときました。
このドラマのことばと出会ってから(『風と共に~』にイタっては観たことはあるが台詞は覚えてません)これまで以上にチャレンジ精神旺盛になってきたような気がします。
いざという時の為ににサーフィンをしたり、いざという時の為にペン字を習ったり、いざという時の為にボランティア団体に入ったり、いざという時の為に作法教室に通ったり、いざという時の為にブラジリアン柔術を始めたり…etc
これからも(もちろんいざという時の為にヨーデルとカンツォーネ、あとマジックなんかも習いたいですね。興味のあることが多くて大変です
島で教えてくださる所あるんですかね??どなたかご存知でしたらお教え下さい!
色んなものに手を出しすぎて、年甲斐も無くとか言われます
ですがタチの悪い事にそれを恥ずかしいとは思ってないのです(こういうのが一番厄介ですよね)
浄土真宗の開祖、親鸞聖人(しんらんしょうにん)曰く
「ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず」
(ただ阿弥陀仏の恩の深さをおもい念仏申せば、世間の嘲笑にも何も恥じる事はない。」
つまり世間に対して恥ずかしいと思う気持ちよりも、仏様に対して恥ずかしいか否かの気持ちを判断基準にせよ、との自分勝手な解釈によって手当たり次第色んなものにチャレンジしてはいるのですが、その代わり途中で飽きて辞めたり断念するものもたくさんありますよ。要は気の向くまま、己の心のおもむくままです…
皆さんも新しいことをスタートするのに躊躇されていたら思い切って始められたら如何ですか?
その代わりその判断基準は“私”ではなくて“仏法”ですよ。
主人公雪穂が大学生になり社交ダンス部に入いりました。
その練習場の壁に書かれてあった文字に雪穂は目を奪われたのです。
「いざという時にダンスのひとつでもできるやつが生き残っていく」
これは確か『風と共に去りぬ』のレッド・バトラーのことばですが、これは私もガツンときました。
このドラマのことばと出会ってから(『風と共に~』にイタっては観たことはあるが台詞は覚えてません)これまで以上にチャレンジ精神旺盛になってきたような気がします。
いざという時の為ににサーフィンをしたり、いざという時の為にペン字を習ったり、いざという時の為にボランティア団体に入ったり、いざという時の為に作法教室に通ったり、いざという時の為にブラジリアン柔術を始めたり…etc
これからも(もちろんいざという時の為にヨーデルとカンツォーネ、あとマジックなんかも習いたいですね。興味のあることが多くて大変です

色んなものに手を出しすぎて、年甲斐も無くとか言われます

ですがタチの悪い事にそれを恥ずかしいとは思ってないのです(こういうのが一番厄介ですよね)
浄土真宗の開祖、親鸞聖人(しんらんしょうにん)曰く
「ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず」
(ただ阿弥陀仏の恩の深さをおもい念仏申せば、世間の嘲笑にも何も恥じる事はない。」
つまり世間に対して恥ずかしいと思う気持ちよりも、仏様に対して恥ずかしいか否かの気持ちを判断基準にせよ、との自分勝手な解釈によって手当たり次第色んなものにチャレンジしてはいるのですが、その代わり途中で飽きて辞めたり断念するものもたくさんありますよ。要は気の向くまま、己の心のおもむくままです…
皆さんも新しいことをスタートするのに躊躇されていたら思い切って始められたら如何ですか?
その代わりその判断基準は“私”ではなくて“仏法”ですよ。
2011年01月13日
ドラマ『白夜行』
数年前のテレビドラマ『白夜行』で印象的なシーンが未だに忘れられません。
複雑な家庭環境で育つ二人の主人公、雪穂と亮司。二人とも自分が決して幸福でない事は自覚しながらも生きている。二人とも小学生と幼く自分達で問題解決できるほどの力はない。陰鬱とした日々を受け入れざるを得ない。
そんな二人は小学校時代に図書館で初めて言葉を交わす。
亮司「昨日はあそこ(川)で何してたの?何か川に落としちゃったの?」
雪穂「どぶに咲く花があるって聞いたから、探してただけ」
亮司「どぶ?」
気になった亮司は辞書で調べるうちにそれが蓮の花だと知り、想いをよせる雪穂のため得意な紙細工で白い蓮の花を作った。
亮司「昨日言ってた、花のことなんだけど…」
後日、亮司は同じく図書館で雪穂に話しかけるが、雪穂は視線を合わせない。
亮司は諦めて図書館を出ていく。
雪穂が橋の上を歩いていると、亮司が呼び止める。
無視して歩き続ける雪穂。
亮司「ちょっと!見て!ここ!」
そこには、白い花が浮かんでいた。
雪穂「うそ・・・。」と呟く。
雪穂「今の何!?何で花…」雪穂は亮司に驚いて尋ねる。
亮司「何でしょう~?」
川には紙で作られた大きな白い花が浮かんでいる。
亮司「言ってたのって、どぶじゃなくて、泥に咲く花のことだと思うんだよね。
蓮のこと。お釈迦様が座ってるやつ。
だから、どぶに咲く花は本当はないんだけど、
ないっていうのも、夢のない話じゃない?」
涙ぐむ雪穂。
亮司「あれ、怒ってる?」
白い花が流されていく。雪穂は川の中に入り白い花を追いかける。亮司は雪穂を引きとめようと手を引っぱり、二人は転倒して川の中へ。
雪穂「すごいよ!すごかった!すごいすごい綺麗だった。私あんなの初めて見た。
こんなことってあるんだね。」
川の中に座り込んだまま雪穂は泣き続けた。
孤独で不幸な二人が蓮の花を基に心通わせる美しいシーンですが、二人が追いかける蓮の花は紙で作ったニセモノ。例えニセモノでも拠り所としたいと思わすほど二人の虚無な毎日。これからの二人が本当の幸せ(蓮の花)を見つけるにはまだまだ遠いと暗示させるような悲しいシーンでもあるように思えます。
-------------------------------------
蓮と仏教とは密接な関係があります。おそらく皆さんの家のお仏壇中心には蓮台に乗った仏様の木像か絵像が、香典袋には蓮の絵が、お寺には蓮の花を模した物がたくさんあります。
【蓮華は高原陸地よりも泥田の中に咲く】
蓮の花は綺麗な空気と水が備わった高原に咲くのではなく、どろどろの泥田に花を咲かせてその泥に染まらない事からお釈迦様はその象徴性を感じられたのでしょう。
泥の中(煩悩がうごめく濁世)にありながらも決して泥色には染まらず綺麗な花(悟り・成仏)を咲かせる、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴まさに仏教のシンボルです。
ですが
この場合いくら私が僧侶で仏道修行をしているからと云っても私自身は蓮ではないのです。
私もまた世間と同じように煩悩の泥にまみれ、『白夜行』の主人公二人のように罪と孤独を抱いて生きていかなければならない泥だということを気付かせてくれるものが仏の教えだと思うのです。
ちょっと分かり辛い文章で申し訳ございません。いつか浄土真宗の特徴的な教え「悪人救済」「悪人正機」などに話がつながっていければ良いなと思います。
そういえば…
犯人を執拗に追いかける刑事役の武田鉄也氏が親鸞聖人のことばを書き記した『歎異抄(たんにしょう)』の一節をよく呟いていたので原作にもあるかと思い読んでみたがありませんでした…
あの歎異抄に出てくる「罪」「悪人」などのことばを刑事が呟く事によってドラマをより深く考えさせられるものにしていたと思うのですが。
ところどころ仏教のエッセンスが出てくるので飽きずに面白く拝見できたドラマでした。
複雑な家庭環境で育つ二人の主人公、雪穂と亮司。二人とも自分が決して幸福でない事は自覚しながらも生きている。二人とも小学生と幼く自分達で問題解決できるほどの力はない。陰鬱とした日々を受け入れざるを得ない。
そんな二人は小学校時代に図書館で初めて言葉を交わす。
亮司「昨日はあそこ(川)で何してたの?何か川に落としちゃったの?」
雪穂「どぶに咲く花があるって聞いたから、探してただけ」
亮司「どぶ?」
気になった亮司は辞書で調べるうちにそれが蓮の花だと知り、想いをよせる雪穂のため得意な紙細工で白い蓮の花を作った。
亮司「昨日言ってた、花のことなんだけど…」
後日、亮司は同じく図書館で雪穂に話しかけるが、雪穂は視線を合わせない。
亮司は諦めて図書館を出ていく。
雪穂が橋の上を歩いていると、亮司が呼び止める。
無視して歩き続ける雪穂。
亮司「ちょっと!見て!ここ!」
そこには、白い花が浮かんでいた。
雪穂「うそ・・・。」と呟く。
雪穂「今の何!?何で花…」雪穂は亮司に驚いて尋ねる。
亮司「何でしょう~?」
川には紙で作られた大きな白い花が浮かんでいる。
亮司「言ってたのって、どぶじゃなくて、泥に咲く花のことだと思うんだよね。
蓮のこと。お釈迦様が座ってるやつ。
だから、どぶに咲く花は本当はないんだけど、
ないっていうのも、夢のない話じゃない?」
涙ぐむ雪穂。
亮司「あれ、怒ってる?」
白い花が流されていく。雪穂は川の中に入り白い花を追いかける。亮司は雪穂を引きとめようと手を引っぱり、二人は転倒して川の中へ。
雪穂「すごいよ!すごかった!すごいすごい綺麗だった。私あんなの初めて見た。
こんなことってあるんだね。」
川の中に座り込んだまま雪穂は泣き続けた。
孤独で不幸な二人が蓮の花を基に心通わせる美しいシーンですが、二人が追いかける蓮の花は紙で作ったニセモノ。例えニセモノでも拠り所としたいと思わすほど二人の虚無な毎日。これからの二人が本当の幸せ(蓮の花)を見つけるにはまだまだ遠いと暗示させるような悲しいシーンでもあるように思えます。
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蓮と仏教とは密接な関係があります。おそらく皆さんの家のお仏壇中心には蓮台に乗った仏様の木像か絵像が、香典袋には蓮の絵が、お寺には蓮の花を模した物がたくさんあります。
【蓮華は高原陸地よりも泥田の中に咲く】
蓮の花は綺麗な空気と水が備わった高原に咲くのではなく、どろどろの泥田に花を咲かせてその泥に染まらない事からお釈迦様はその象徴性を感じられたのでしょう。
泥の中(煩悩がうごめく濁世)にありながらも決して泥色には染まらず綺麗な花(悟り・成仏)を咲かせる、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴まさに仏教のシンボルです。
ですが
この場合いくら私が僧侶で仏道修行をしているからと云っても私自身は蓮ではないのです。
私もまた世間と同じように煩悩の泥にまみれ、『白夜行』の主人公二人のように罪と孤独を抱いて生きていかなければならない泥だということを気付かせてくれるものが仏の教えだと思うのです。
ちょっと分かり辛い文章で申し訳ございません。いつか浄土真宗の特徴的な教え「悪人救済」「悪人正機」などに話がつながっていければ良いなと思います。
そういえば…
犯人を執拗に追いかける刑事役の武田鉄也氏が親鸞聖人のことばを書き記した『歎異抄(たんにしょう)』の一節をよく呟いていたので原作にもあるかと思い読んでみたがありませんでした…
あの歎異抄に出てくる「罪」「悪人」などのことばを刑事が呟く事によってドラマをより深く考えさせられるものにしていたと思うのですが。
ところどころ仏教のエッセンスが出てくるので飽きずに面白く拝見できたドラマでした。
