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大島紬泥染め職人の家に生まれたごく普通の男がひょんなことからお坊さんに!? 全国的に廃寺傾向の中、奄美生まれ紬屋の息子が新寺建立を夢見て地域で奮闘中! 日常何気なく感じた事から仏教学まで分かりやすく書き綴っていきたいと思います。

2012年06月23日

今年はお墓を建ててはいけない年??

多くの方からご質問があります「ユリヅキ」について。
「ヨリヅキ」と言ったりましますね。


奄美ではユリヅキにあたる年はお墓など建てたらいけないとよく聞きますが本当でしょうか?


まずそのことを知るためには太陽暦・太陰暦・太陰太陽暦について知らなければなりませんが
これがなかなかややこしく短くまとめるのは難しいので省略できる部分は省略します。

太陽暦、これは普段私たちが使ってる暦で世界のほとんどの人が用いてます。
でも奄美では年間行事や日常でも太陰太陽暦を用いる場合が多くあります。
これを旧暦と言います(厳密には旧暦の意味は色んな意味がありますが)

  

  太陰太陽暦 = 旧暦



太陽暦では4年に1度、2月が1日多くなります。
これを閏年(うるうどし)と言いますが
旧暦では1か月を29日もしくは30日として
33か月に1度、同じ月を2度続け1年で13か月ある年があります。
これを閏月(うるうづき)と言います。



  太陽暦では4年に1度、
  太陰太陽暦(旧暦)では33か月に1度、
  季節と暦を一致させるため修正する年があります。



この閏月(うるうづき)の呼び方が変化して「ユリヅキ」となりました。
また同じ月が2度あることから月が寄る(=ヨリヅキ)とも言われるようになりました。



さてicon41
長い前置きになってしまいました。icon127
上記の部分はさらっと読んでください。ここから本題です。


昔、武士の時代
そのお給料は年棒制でした。
しかし旧暦の場合12か月分の給料で13か月生活しなければいけない年がありました。
その閏月=ユリヅキの年は出費を抑え、
新築や結納・結婚などお金の掛かることを避ける習慣があったようです。
もちろんその中にはお墓を建てる事も避けられていたのでしょう。

しかし今私たちは太陽暦を中心に生活しています。
昔の武士のように年棒制でもありませんし、1年を13か月として生活しているわけでもありません。
金銭的、経済的な理由でお墓を建てられないという場合以外は今年ユリヅキであってもお墓を建てて構わないはずです。


逆の事を言えば
ユリヅキにお墓を建てることを避けるのであれば
(お金の掛かる)新築リフォームや婚礼、車の買い替え、子や孫の進学なども避けるべきではないでしょうか?

これは過ぎた冗談ですが、ユリヅキにお墓を建てても何の問題もありません。

一部、不勉強な僧侶がユリヅキの事を助長するような発言がしているみたいですが
モノの根拠自体を知っていれば何も心配いりません。



   閏月(ユリヅキ) = お墓を建てたら災いがおこる、祟りがある、世間的に不作法である



と言う事は全くありません。  


Posted by ジャクシン at 12:50Comments(0)仏事作法

2012年06月15日

「宗教」について④

もう一つの世界宗教とは
キリスト教、
イスラム教、
そして仏教などです。

特徴としては限られた国家や地域あるいは民族などに限定されず信奉され
世界中に信仰する人がいて政治的、社会的、文化的に多くの影響を与えています。

キリスト教えはユダヤ人には広まらず周辺のヨーロッパに広がってますね。
イスラム教の開祖ムハンマドの活動地域はアラビア半島と言われてますが
現在はアラブ全域から北アフリカ、中央アジアから東南アジアに広がっています。
インド発祥の仏教もアジア各国に広まりましたが
現在ではインド国内でいえばヒンドゥー教の方が信者数は多いようです。


この普遍的世界宗教に共通するもう一つの特徴は
イエスキリストやムハンマド、お釈迦様など開祖や預言者がいることと
それまで多くの人が囚われていた神話や呪術、制度などの束縛から解放された教えだと言う事です。

たとえば現代の日本人には想像も出来ないほど厳しかったインドのカースト制度。
仕事や住む場所など決められどんなに本人が努力しても何も変わらない時代に
お釈迦様は人の平等を説きました。

イエスキリストは当時、規則や戒律ばかりを重視するユダヤ教に異を唱えるあたりが
内面重視の新しい教えであったに違いありません。

ムハンマドは当時のアラビア半島で信仰されていた多神教を否定し、
唯一の神の前における万人の平等を説きました。



つまりこの3つの宗教は
差別的、儀礼的でああったそれまでの社会通念にたいしてのアンチテーゼの意味を持ちます。
だからこそ世界中の多くの弱く貧しい人たちの支持を得て、これほどまでに普及したと考えられます。




さて次回は各宗教を掘り下げて書いていきたいと思います。

<続く>

  


Posted by ジャクシン at 07:00宗教について

2012年06月13日

笠利にて仏式での地鎮祭!②

さて前回は堅い内容が続きましたので

こちらでは少し気を緩めていきたいと思います。

でも起工式は(地鎮祭は)家が出来上がる前での式典の中で最も厳粛なものです。

私も緊張いたしますface08


今日は笠利町のK家、あいにくの雨模様でしたが
テントもあったし何よりも法要の間だけピタリと雨が止み
どなたも濡れることがなかったのです。


施主さま、関連業者さま、私もセッティングを始めます。
お供えは簡単なお菓子や果物、お花、蝋燭など必要最低限。
魚とか季節の野菜、季節の果物とかは供えません。


皆さん揃ったところでお経スタート!
 ↓
神道式とは違って玉串の代わりにお焼香。
 ↓
散華
 ↓  ↓
法話

と時間にすると15~20分ぐらい。


この耳慣れない散華(さんげ)ですが
仏典には仏が説法するときは,天から花が降って来ると説かれていおり,
これは天人が仏を讃嘆することをしめしています。
このように仏を讃嘆し供養するために,仏のまわりをめぐりながら,
花を地に散らすのが散華です。
この場合は花の形をした紙製の「華葩(けは)」というものを撒きます。



今回ご依頼があったk家の主人はカメラが趣味で
アマミノクロウサギなどを専門に撮ってらっしゃる。
新築の家はどうも趣味の家、ご主人の隠れ家的なお家になりそうな予感

本当におめでとうございます!
完成を楽しみにしております!


神式では、その土地の神様にお許しを得るのが目的ですが、
仏式では さまざまな人々のお陰をもって
建築の運びとなったご縁をお互いに喜び合い
これを仏さまに感謝するとともに、
自らの責任をもって工事に取り組むことに襟を正し
これから建築する建物が安全にそしてしっかりとしたものにすることを仏前に誓う儀式とも言えるでしょう。

仏式
神式
いずれにしても厳粛で心引き締まる素晴らしい法要だと思います。

どうぞK家の皆様今まで通り仲良くお暮しください!








  


Posted by ジャクシン at 04:25Comments(0)仏事作法

2012年06月13日

笠利にて仏式での地鎮祭!

新しく家を建てるときほとんどの方が行う地鎮祭。
仏式でも地鎮祭はします。

なお浄土真宗では「地鎮祭(じちんさい)」とは言わずに「起工式(きこうしき)」と言います。
呼び方も変わればその意味合いも少し変わってきます。


神道的地鎮祭は本当に浅い知識内でのお話しかできませんが、
大雑把に言いますと
日本の土地は八百万の神が所有しています。
勝手に家を建ててその土地を守っている氏神様の怒りに触れないようにまずお願いをしなければなりません。
いわば土地借用の儀式です。
それに合わせて工事中の安全、工事後の家内繁栄をお願いします。
建てる土地に以前は何があったかわからないので悪い要因を清めてもらう、という意味もあります。

雑な説明ですが大体このような感じで間違いはないと思います。



さて仏式はというと
そのルーツは意外と古く
『日本書紀』によりますと孝徳天皇の時代651年に「安宅神呪経(あんたくじんしゅきょう)」が拝誦されたと言われています。

この「安宅神呪経」とはもちろんお釈迦様の説かれたもので、
起工式深くに関わるものです。
つまり西暦651年には仏式での地鎮祭=起工式が行われていた手掛かりになるのではないでしょうか?

浄土真宗では拝誦しないお経ですので、以前私が大阪は吹田に住んでいた頃に勉強会などで大変お世話になった同じ組内の光徳寺さんのHPでそのお知恵をお借りしたい思います。
要点を抜粋いたします。


簡単に説明しますと「安宅神呪経」にはこういった内容です。

離車という名の長者が、仏さまのもとに赴き、
家に取り憑いた諸神や悪鬼のために災禍があり、
苦しんでいると訴え、これらの災禍を取り除いてほしいとお願いするのです。

仏さまは、その願いを聞き入れ、長者の家に行き
守宅の諸神を呼び、その妄動をいましめ諭されたことがお経の中に説かれています。



 短い経典なのですが、お説教を深く味わうと、仏教の基本的な考え方が伝わってきます。


ここで先ず示されるのは、人間のみならず、
土地の神、家の神も迷いの存在である、ということです。

だから、時として人間にも災禍をもたらすのです。
仏さまは、慈悲をもって諸神、悪鬼の迷いを除かれ安穏ならしめることによって、
その家に住む人々も安穏に暮らすことができるのです。
諸神、悪鬼を退治するという、単純な勧善懲悪の話ではありません。

 ところが、経典の構成をもう少し詳しく訪ねますと、もっと深い意味のあることが知らされます。

土地の神、家の神の迷いといいましたがそれらは人間自身の迷いでもあります。お釈迦さまは、家に吉凶があるかないか、と問う離車長者に

「諸々の事項はみな衆生の心行に由って生じる」

と説かれます。

つまり色んな災いや不幸は土地の神、家の神の所為ではなく自分の心がおこす妄念が原因だと。


最近、シック・ハウス症候群といって、建築方法や使用する建材が
健康に悪影響を及ぼすことがあると指摘されるようになってきました。
災禍とされたものの中には、そのようなシック・ハウス症候群に類することもあったのでしょう。
それらまで諸神や悪鬼の仕業に仕立て上げてきた歴史がありました。

そこに、人間の迷いを観てとられた仏さまが、
諸神、悪鬼をいましめるという形で、人間の迷いと救いを示されたのです。(つまり方便)


また、家を建てれば、その土地との関わりが生まれます。
その周辺に住む人々や、環境との関係が大切になってきます。
自己中心的な振る舞いは、やがて自身への災禍となって戻ってきます。その時、私たちはお互いに、隣人や周辺環境だけに責任を転嫁しがちです。

しかし、仏教経典が勧善懲悪に終わらないのは他を廃することによって解決をはかるのではなく、共に歩んでいく道を共に問うのが仏教徒のスタイルだからでしょう。

そして、その人間観、環境観は地域との関係にとどまらず、
やがて自他の隔てのない普遍的な世界観へと導かれていくのです。
これは、逆に、近隣に新しい家や人々を受け入れる側となった場合も同じことだと思います。

<続く>  


Posted by ジャクシン at 04:09Comments(0)仏事作法