2011年09月19日
お坊さんの呼び方
よくいただく質問で
「お坊さん(私のことです)の事を何と呼んだらいいのですか?」
と尋ねられます。
全国的な呼び名で一番使われるのが
「住職(じゅうしょく)」
これは宗派を超えてどこでも通用します。
鹿児島県下ではお坊さんの事を
「○○先生」
なんて言う場合がほとんどで、ここ奄美でもその呼び方がよく使われています。
実際、私が人様から呼ばれる場合は「成田先生」なんて呼んでいただいております。
が、「先生」なんて呼ばれるのも柄じゃないし気恥しい気がするのも正直な気持ち。
地方によっては
「ご院家(ごいんげ)さん」「ご院主(ごいんじゅ)さん」がなまって「ご院さん(ごいんさん)」
お住持さんがなまって「おじゅっさん」なんてのもや「おっさん」なんてのもあります。
また新米僧侶の事を「若ぼん」「しんぼっち」と言うのもあります。
余談ですが、
「坊=お寺」の「主(ぬし)」と書いて「坊主(ぼうず)」も強ち間違いではありません。
浄土真宗以外では
「お上人(おしょうにん)」「和尚(おしょう)」「和上(わじょう)」
ですが個人的な意見としては
「お寺さん」
「○○寺さん」
なんて呼び方が粋で好きな呼び方です。
もし将来お寺が建立された時「寂心庵」から「○○寺」と寺号が変更になります。
その時には是非
「○○寺さん」「お寺さん」もしくは今まで通り「成田ボンさん」でお願いしたいな〜

byジャクシン
「お坊さん(私のことです)の事を何と呼んだらいいのですか?」
と尋ねられます。
全国的な呼び名で一番使われるのが
「住職(じゅうしょく)」
これは宗派を超えてどこでも通用します。
鹿児島県下ではお坊さんの事を
「○○先生」
なんて言う場合がほとんどで、ここ奄美でもその呼び方がよく使われています。
実際、私が人様から呼ばれる場合は「成田先生」なんて呼んでいただいております。
が、「先生」なんて呼ばれるのも柄じゃないし気恥しい気がするのも正直な気持ち。
地方によっては
「ご院家(ごいんげ)さん」「ご院主(ごいんじゅ)さん」がなまって「ご院さん(ごいんさん)」
お住持さんがなまって「おじゅっさん」なんてのもや「おっさん」なんてのもあります。
また新米僧侶の事を「若ぼん」「しんぼっち」と言うのもあります。
余談ですが、
「坊=お寺」の「主(ぬし)」と書いて「坊主(ぼうず)」も強ち間違いではありません。
浄土真宗以外では
「お上人(おしょうにん)」「和尚(おしょう)」「和上(わじょう)」
ですが個人的な意見としては
「お寺さん」
「○○寺さん」
なんて呼び方が粋で好きな呼び方です。
もし将来お寺が建立された時「寂心庵」から「○○寺」と寺号が変更になります。
その時には是非
「○○寺さん」「お寺さん」もしくは今まで通り「成田ボンさん」でお願いしたいな〜

byジャクシン
2011年04月10日
法事を先延ばししても良いか?
皆さんお久しぶりです。僧侶のジャクシンです。
今日も自作自演型Q&Aをしてみたいと思います。
実際にご法事をされる方から多い質問ですので参考になればと思います。
Q:命日を過ぎて後日、法事を行っても良いのでしょうか?親戚や知人に聞くと「命日よりも早くだったら良いけど先延ばしは絶対いけない!」と言います・・・
A:一般的な作法では命日か命日よりも先に法事をするのがマナーとされていると思います。大事な故人の命日を忘れてはいけない、また故人に対しても命日を忘れてはいないと言うアピールであり故人を大切にとの先達からの戒めの言葉なのでしょう。
それとは逆にお祝い事は先延ばしても許されるなどと聞いたりもします(もちろん地域差はありますが)
浄土真宗での法事の場と言うのはあくまでも故人を機縁として仏法を聞く場です。決して亡くなった方を迷いの存在として摩訶不思議な加持祈祷をし鎮魂しているわけではありません。故人を偲び、集まった人たちが仏法に出会うことが目的であると言えます。
その命日の日が平日だったり、他の予定と重なったりとナカナカこの日!と決めたものの全員の都合が合わない、なんてことは良くあることですよね。
その場合考え方をこう変えられたらどうでしょう。先人先達の教え通り、お祝い事は先延ばしにしても良いという考え方があるのだから法事も故人が仏になった成仏の記念日としてお祝いの意味合いを持って先延ばしされたら如何でしょうか?
イヤイヤイヤイヤ
大事な家族を亡くしてまだ数年しか経ってないのにとてもじゃないけど「お祝い」だなんてとてもじゃないけど思えない!
と仰る方も当然いらっしゃるでしょう。
ごもっともです。
出来るなら命日通り、もしくは命日前に法事を営むのが理想ではあります。
でも万が一、命日よりも後にしか皆が集まることが出来ない場合はどうぞご安心して命日過ぎてご法事を営んでください。何故なら仏教では「死」を苦から離れた永遠の安楽、と考え決してマイナスなイメージは無く尊いものだと考えます。
「悲しい」と「尊い」「有難い」が混在する不思議な場であり「忌み事」や「穢れた事」ではなく少なくとも僧侶は弔事だとは考えていません。
身近なものを亡くされた方も時間が経つたび、年月を重ねる度に段々とその悲しみも和らいでいくようです(心理学では「喪の作業」「喪の仕事」等と言ったりします)
ではお亡くなりになって何年ぐらいから弔事でいつからが慶事に切り替わるのでしょう?それとも今後ずっと私達は悲しんで生きていかなくては行けないんでしょうか!?
仏教徒であるなら本当は最初から「死」を尊いものだと思うべきところを素直に受け入れる事が出来ないでいる自分に気付かされていく浮き彫りにされた“自分の心”に出会うのもこの法事の場だと思います。

九州に住むあるご住職が父親を亡くされ、私宛に年賀状をくださいました(仏教では喪中欠礼の作法も無い)
そのハガキには
「〇〇歳を一期とし往生あそばれた父の事を思うと今は悲しい気持ちでいっぱいですが、それと同じく尊い気持ちでいっぱいです」と書かれていました。
皆様におかれましても
いつの日かその悲しみが
寂しいから懐かしい、懐かしいから尊い、尊いから有難い
となっていつの日か慶事としてご法事を営んでいけることを願っています。
byジャクシン
追記:
文章を手短に書くことが出来なくてスミマセン。
赤い大文字で書いてあるところだけ読めば大体の内容が分かると思います。
今日も自作自演型Q&Aをしてみたいと思います。
実際にご法事をされる方から多い質問ですので参考になればと思います。
Q:命日を過ぎて後日、法事を行っても良いのでしょうか?親戚や知人に聞くと「命日よりも早くだったら良いけど先延ばしは絶対いけない!」と言います・・・
A:一般的な作法では命日か命日よりも先に法事をするのがマナーとされていると思います。大事な故人の命日を忘れてはいけない、また故人に対しても命日を忘れてはいないと言うアピールであり故人を大切にとの先達からの戒めの言葉なのでしょう。
それとは逆にお祝い事は先延ばしても許されるなどと聞いたりもします(もちろん地域差はありますが)
浄土真宗での法事の場と言うのはあくまでも故人を機縁として仏法を聞く場です。決して亡くなった方を迷いの存在として摩訶不思議な加持祈祷をし鎮魂しているわけではありません。故人を偲び、集まった人たちが仏法に出会うことが目的であると言えます。
その命日の日が平日だったり、他の予定と重なったりとナカナカこの日!と決めたものの全員の都合が合わない、なんてことは良くあることですよね。
その場合考え方をこう変えられたらどうでしょう。先人先達の教え通り、お祝い事は先延ばしにしても良いという考え方があるのだから法事も故人が仏になった成仏の記念日としてお祝いの意味合いを持って先延ばしされたら如何でしょうか?
イヤイヤイヤイヤ

と仰る方も当然いらっしゃるでしょう。
ごもっともです。
出来るなら命日通り、もしくは命日前に法事を営むのが理想ではあります。
でも万が一、命日よりも後にしか皆が集まることが出来ない場合はどうぞご安心して命日過ぎてご法事を営んでください。何故なら仏教では「死」を苦から離れた永遠の安楽、と考え決してマイナスなイメージは無く尊いものだと考えます。
「悲しい」と「尊い」「有難い」が混在する不思議な場であり「忌み事」や「穢れた事」ではなく少なくとも僧侶は弔事だとは考えていません。
身近なものを亡くされた方も時間が経つたび、年月を重ねる度に段々とその悲しみも和らいでいくようです(心理学では「喪の作業」「喪の仕事」等と言ったりします)
ではお亡くなりになって何年ぐらいから弔事でいつからが慶事に切り替わるのでしょう?それとも今後ずっと私達は悲しんで生きていかなくては行けないんでしょうか!?
仏教徒であるなら本当は最初から「死」を尊いものだと思うべきところを素直に受け入れる事が出来ないでいる自分に気付かされていく浮き彫りにされた“自分の心”に出会うのもこの法事の場だと思います。

九州に住むあるご住職が父親を亡くされ、私宛に年賀状をくださいました(仏教では喪中欠礼の作法も無い)
そのハガキには
「〇〇歳を一期とし往生あそばれた父の事を思うと今は悲しい気持ちでいっぱいですが、それと同じく尊い気持ちでいっぱいです」と書かれていました。
皆様におかれましても
いつの日かその悲しみが
寂しいから懐かしい、懐かしいから尊い、尊いから有難い
となっていつの日か慶事としてご法事を営んでいけることを願っています。
byジャクシン
追記:
文章を手短に書くことが出来なくてスミマセン。
赤い大文字で書いてあるところだけ読めば大体の内容が分かると思います。
2010年10月17日
坊さんはお肉を食べてもいいの??
ジャクシンです。
ご覧頂きありがとうございます。
毎日アクセスカウンタを見るのが楽しみになってきました。
今日は自作自演型Q&Aをしてみたいと思います。
質問者も解答者もジャクシン本人です
こんな風にご質問いただけたら嬉しいです。
Q:お坊さんが肉食してもいいの!?
A:『涅槃経』の中には肉食を禁止する箇所があるのでその影響で
仏教 = 肉食禁止
というイメージがあるのだと思います。
また後に太政官布告によって肉食妻帯が仏教界において許可されたと思われがちですが
はるか昔、お釈迦様の時代にも肉食を禁じているということは無かったようです。
ただし「殺生」は禁じておりましたので条件付で肉食は許され注意は必要でした。
その条件とは「自分のために殺生された、もしくはその疑いのある肉は口にしない」
というものでした。
その条件が整ったお肉でも絶対に口にしない十種肉禁というものがあるのですが
全部は覚えてませんが、虎とか熊とかハイエナとかライオンとか犬とか馬とか人とか。
まぁ普通人はねぇ・・・ちょっと
僧侶は在家の方々からの施しで食べさせてもらってるので基本いただき物はお肉でも何でも食す、
というスタンスです。
仏教では全てのものを「いのち」と見ます。それが草木やお花・果物であってもです。
お肉は食べずにお野菜だけしか食べないと言ってもやはりお野菜のいのちは頂いているわけですし
お野菜が出来るまでに畑では害虫を駆除したり、土の中の虫を踏み潰したりしているかも知れません。
私たちは色んないのちの犠牲の上で生きているのだと
自覚する事が仏教徒らしい生き方なのかもしれません。
無駄な殺生はしませんがどの食材もありがたく頂き肉食もします、というのが答えです。
ご覧頂きありがとうございます。
毎日アクセスカウンタを見るのが楽しみになってきました。
今日は自作自演型Q&Aをしてみたいと思います。
質問者も解答者もジャクシン本人です

こんな風にご質問いただけたら嬉しいです。
Q:お坊さんが肉食してもいいの!?
A:『涅槃経』の中には肉食を禁止する箇所があるのでその影響で
仏教 = 肉食禁止
というイメージがあるのだと思います。
また後に太政官布告によって肉食妻帯が仏教界において許可されたと思われがちですが
はるか昔、お釈迦様の時代にも肉食を禁じているということは無かったようです。
ただし「殺生」は禁じておりましたので条件付で肉食は許され注意は必要でした。
その条件とは「自分のために殺生された、もしくはその疑いのある肉は口にしない」
というものでした。
その条件が整ったお肉でも絶対に口にしない十種肉禁というものがあるのですが
全部は覚えてませんが、虎とか熊とかハイエナとかライオンとか犬とか馬とか人とか。
まぁ普通人はねぇ・・・ちょっと

僧侶は在家の方々からの施しで食べさせてもらってるので基本いただき物はお肉でも何でも食す、
というスタンスです。
仏教では全てのものを「いのち」と見ます。それが草木やお花・果物であってもです。
お肉は食べずにお野菜だけしか食べないと言ってもやはりお野菜のいのちは頂いているわけですし
お野菜が出来るまでに畑では害虫を駆除したり、土の中の虫を踏み潰したりしているかも知れません。
私たちは色んないのちの犠牲の上で生きているのだと
自覚する事が仏教徒らしい生き方なのかもしれません。
無駄な殺生はしませんがどの食材もありがたく頂き肉食もします、というのが答えです。