2012年06月13日
笠利にて仏式での地鎮祭!
新しく家を建てるときほとんどの方が行う地鎮祭。
仏式でも地鎮祭はします。
なお浄土真宗では「地鎮祭(じちんさい)」とは言わずに「起工式(きこうしき)」と言います。
呼び方も変わればその意味合いも少し変わってきます。
神道的地鎮祭は本当に浅い知識内でのお話しかできませんが、
大雑把に言いますと
日本の土地は八百万の神が所有しています。
勝手に家を建ててその土地を守っている氏神様の怒りに触れないようにまずお願いをしなければなりません。
いわば土地借用の儀式です。
それに合わせて工事中の安全、工事後の家内繁栄をお願いします。
建てる土地に以前は何があったかわからないので悪い要因を清めてもらう、という意味もあります。
雑な説明ですが大体このような感じで間違いはないと思います。
さて仏式はというと
そのルーツは意外と古く
『日本書紀』によりますと孝徳天皇の時代651年に「安宅神呪経(あんたくじんしゅきょう)」が拝誦されたと言われています。
この「安宅神呪経」とはもちろんお釈迦様の説かれたもので、
起工式深くに関わるものです。
つまり西暦651年には仏式での地鎮祭=起工式が行われていた手掛かりになるのではないでしょうか?
浄土真宗では拝誦しないお経ですので、以前私が大阪は吹田に住んでいた頃に勉強会などで大変お世話になった同じ組内の光徳寺さんのHPでそのお知恵をお借りしたい思います。
要点を抜粋いたします。
簡単に説明しますと「安宅神呪経」にはこういった内容です。
離車という名の長者が、仏さまのもとに赴き、
家に取り憑いた諸神や悪鬼のために災禍があり、
苦しんでいると訴え、これらの災禍を取り除いてほしいとお願いするのです。
仏さまは、その願いを聞き入れ、長者の家に行き
守宅の諸神を呼び、その妄動をいましめ諭されたことがお経の中に説かれています。
短い経典なのですが、お説教を深く味わうと、仏教の基本的な考え方が伝わってきます。
ここで先ず示されるのは、人間のみならず、
土地の神、家の神も迷いの存在である、ということです。
だから、時として人間にも災禍をもたらすのです。
仏さまは、慈悲をもって諸神、悪鬼の迷いを除かれ安穏ならしめることによって、
その家に住む人々も安穏に暮らすことができるのです。
諸神、悪鬼を退治するという、単純な勧善懲悪の話ではありません。
ところが、経典の構成をもう少し詳しく訪ねますと、もっと深い意味のあることが知らされます。
土地の神、家の神の迷いといいましたが、それらは人間自身の迷いでもあります。お釈迦さまは、家に吉凶があるかないか、と問う離車長者に
「諸々の事項はみな衆生の心行に由って生じる」
と説かれます。
つまり色んな災いや不幸は土地の神、家の神の所為ではなく自分の心がおこす妄念が原因だと。
最近、シック・ハウス症候群といって、建築方法や使用する建材が
健康に悪影響を及ぼすことがあると指摘されるようになってきました。
災禍とされたものの中には、そのようなシック・ハウス症候群に類することもあったのでしょう。
それらまで諸神や悪鬼の仕業に仕立て上げてきた歴史がありました。
そこに、人間の迷いを観てとられた仏さまが、
諸神、悪鬼をいましめるという形で、人間の迷いと救いを示されたのです。(つまり方便)
また、家を建てれば、その土地との関わりが生まれます。
その周辺に住む人々や、環境との関係が大切になってきます。
自己中心的な振る舞いは、やがて自身への災禍となって戻ってきます。その時、私たちはお互いに、隣人や周辺環境だけに責任を転嫁しがちです。
しかし、仏教経典が勧善懲悪に終わらないのは、他を廃することによって解決をはかるのではなく、共に歩んでいく道を共に問うのが仏教徒のスタイルだからでしょう。
そして、その人間観、環境観は地域との関係にとどまらず、
やがて自他の隔てのない普遍的な世界観へと導かれていくのです。
これは、逆に、近隣に新しい家や人々を受け入れる側となった場合も同じことだと思います。
<続く>
仏式でも地鎮祭はします。
なお浄土真宗では「地鎮祭(じちんさい)」とは言わずに「起工式(きこうしき)」と言います。
呼び方も変わればその意味合いも少し変わってきます。
神道的地鎮祭は本当に浅い知識内でのお話しかできませんが、
大雑把に言いますと
日本の土地は八百万の神が所有しています。
勝手に家を建ててその土地を守っている氏神様の怒りに触れないようにまずお願いをしなければなりません。
いわば土地借用の儀式です。
それに合わせて工事中の安全、工事後の家内繁栄をお願いします。
建てる土地に以前は何があったかわからないので悪い要因を清めてもらう、という意味もあります。
雑な説明ですが大体このような感じで間違いはないと思います。
さて仏式はというと
そのルーツは意外と古く
『日本書紀』によりますと孝徳天皇の時代651年に「安宅神呪経(あんたくじんしゅきょう)」が拝誦されたと言われています。
この「安宅神呪経」とはもちろんお釈迦様の説かれたもので、
起工式深くに関わるものです。
つまり西暦651年には仏式での地鎮祭=起工式が行われていた手掛かりになるのではないでしょうか?
浄土真宗では拝誦しないお経ですので、以前私が大阪は吹田に住んでいた頃に勉強会などで大変お世話になった同じ組内の光徳寺さんのHPでそのお知恵をお借りしたい思います。
要点を抜粋いたします。
簡単に説明しますと「安宅神呪経」にはこういった内容です。
離車という名の長者が、仏さまのもとに赴き、
家に取り憑いた諸神や悪鬼のために災禍があり、
苦しんでいると訴え、これらの災禍を取り除いてほしいとお願いするのです。
仏さまは、その願いを聞き入れ、長者の家に行き
守宅の諸神を呼び、その妄動をいましめ諭されたことがお経の中に説かれています。
短い経典なのですが、お説教を深く味わうと、仏教の基本的な考え方が伝わってきます。
ここで先ず示されるのは、人間のみならず、
土地の神、家の神も迷いの存在である、ということです。
だから、時として人間にも災禍をもたらすのです。
仏さまは、慈悲をもって諸神、悪鬼の迷いを除かれ安穏ならしめることによって、
その家に住む人々も安穏に暮らすことができるのです。
諸神、悪鬼を退治するという、単純な勧善懲悪の話ではありません。
ところが、経典の構成をもう少し詳しく訪ねますと、もっと深い意味のあることが知らされます。
土地の神、家の神の迷いといいましたが、それらは人間自身の迷いでもあります。お釈迦さまは、家に吉凶があるかないか、と問う離車長者に
「諸々の事項はみな衆生の心行に由って生じる」
と説かれます。
つまり色んな災いや不幸は土地の神、家の神の所為ではなく自分の心がおこす妄念が原因だと。
最近、シック・ハウス症候群といって、建築方法や使用する建材が
健康に悪影響を及ぼすことがあると指摘されるようになってきました。
災禍とされたものの中には、そのようなシック・ハウス症候群に類することもあったのでしょう。
それらまで諸神や悪鬼の仕業に仕立て上げてきた歴史がありました。
そこに、人間の迷いを観てとられた仏さまが、
諸神、悪鬼をいましめるという形で、人間の迷いと救いを示されたのです。(つまり方便)
また、家を建てれば、その土地との関わりが生まれます。
その周辺に住む人々や、環境との関係が大切になってきます。
自己中心的な振る舞いは、やがて自身への災禍となって戻ってきます。その時、私たちはお互いに、隣人や周辺環境だけに責任を転嫁しがちです。
しかし、仏教経典が勧善懲悪に終わらないのは、他を廃することによって解決をはかるのではなく、共に歩んでいく道を共に問うのが仏教徒のスタイルだからでしょう。
そして、その人間観、環境観は地域との関係にとどまらず、
やがて自他の隔てのない普遍的な世界観へと導かれていくのです。
これは、逆に、近隣に新しい家や人々を受け入れる側となった場合も同じことだと思います。
<続く>
Posted by ジャクシン at 04:09│Comments(0)
│仏事作法